伊豆の天草がピンチ!?稲取の海女さんが亡くなっていた。

毎年、天草の入札で最高値の特Aランクの品質を誇る稲取産天草

稲取の海女さんはもう一人しかいないと言っていたのですが、昨年、その海女さんが亡くなられていました。。

天草漁の高齢が問題になってましたが、さらにピンチとなりました。

http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/281227.html

念のため、静岡新聞さんの記事、テキストでご紹介させていただきます。

静岡新聞2016/9/13 より抜粋

 

海女漁途絶える 東伊豆・稲取のテングサ、「最後の女性」死去

(2016/9/13 08:28)

稲取のテングサを支えてきた海女漁。今夏でその歴史が途絶え、伊豆漁協は新たな漁法を検討する=1966年ごろ、東伊豆町(同町の水産会社「徳造丸」提供)
稲取のテングサを支えてきた海女漁。今夏でその歴史が途絶え、伊豆漁協は新たな漁法を検討する=1966年ごろ、東伊豆町(同町の水産会社「徳造丸」提供)

江戸時代から続く東伊豆町稲取の伝統産業のテングサ漁が、岐路に立たされている。「最後の海女」として長年、採取を一人で担ってきた山本都志子さん(79)が今夏亡くなり、稲取での海女漁の歴史が途絶えた。高品質で知られる稲取のテングサを守るため、地元の伊豆漁協稲取支所は新たな漁法と藻場保全策を検討している。
同支所によると、山本さんは8月11日、午後の漁に出ようとして体調の異変を訴え、そのまま不帰の人になったという。鈴木義行支所長(59)は「とにかく海が好きな人だった」と、生涯現役を貫いた山本さんを悼む。
テングサの漁期は5~9月。伊豆漁協は漁業権の規則を改定してダイビング器具の使用を認め、2017年以降はダイバーに採取を依頼する方針。雑草が増えるなど漁場環境の悪化が懸念されるため、水産庁の対策事業として助成を受け、5年間かけて藻場の岩盤清掃にも取り組む。
稲取のテングサ漁の歴史は古く、江戸時代にさかのぼるとされる。沼津藩の直轄事業で営まれ、明治以降も基幹産業として地域経済の発展に大きく寄与してきた。

支柱だったのが海女漁だ。町の郷土史には「1955年ごろにはタル海女70人、干潮時に岩のテングサを取るおかむしりが真夏に40人いた」との記録が残る。その後、高齢化と後継者不足に直面。山本さんが一人で伝統の漁をつないでいた。
元海女で、山本さんと一緒に潜っていた同町の鈴木いつ代さん(74)は「海女の担い手がいないのは時代の流れだが、良質な稲取のテングサがなくなるのはもったいない」と漁の継続に期待する。

 <テングサ> 紅藻テングサ科の海藻の総称。ところてんや寒天の原料となり、県内では伊豆半島でのみ生産されている。東伊豆町の2014年の水揚げ量は14トン。伊豆東海岸では一般的な「マクサ」に加え、茎が太くて寒天成分の多い「オオブサ」も多く取れる。高品質として知られ、特に稲取産は高級和菓子の原料としても人気が高いという。15年の県内全体の生産量(乾燥状態)は111トンで、愛媛県に次ぐ全国2位だった。

 

2016楽天IT学校の海外向けのビデオを作ってもらいました

2016年4月から、静岡県の県立富岳館高校でインターネット販売の授業を担当店舗としてかかわらせてもらいました。

楽天市場での商品の販売の考え方、方法を学んでもらうカリキュラムです。

その授業風景を楽天さんがビデオにとってくれました

とても素敵なビデオです

ぜひご覧ください。

出番は少ないですが、、、

うちの父親が工場で出ています。

生徒さんたちも熱心に聞いてくれました。

地方にいてもインターネットなら商売できる。そんな素敵な事を体験してもらったと思います。

楽天IT学校の高校生がところってんの伊豆河童の工場見学に来ました。

JKが群がるところてん屋さん

 

 

伊豆河童は、本年度、次世代を担う子供たちにネットショッピング運営の実体験を通じ、

実践的な電子商取引を理解いただくための出張授業を行っています。

 

富士の麓、富士宮にある富岳館高校がその高校です。

今回は、販売ページ作成をするために現場を見たいという事で、工場見学を実施しました。

 

担当の富岳館高校の生徒が、生徒自身で商品アイデアを出しそれを商品化して販売します。

 

その為に工場、売店、その他もろもろ写真を撮ったり、メモを取ったり。

ページ作成に必要な素材集めも含めて実施しました。

実際、40人入れるかなぁ と思ったのですが、2班に分かれるよりはいっぺんにやってしまおうという事で

先生、含めて50人くらいで工場見学やってみました。

 

実際に、地元の特産品としてのところてんがどうやって作られるのか?

どんなところで作っているのか?

だれが、作っているのか?

 

この辺の重要な事を知ってもらえたかなと思います。

 

※富岳館高校の自慢 教室の窓から見る富士山

 

「天城の寒天」製造の大釜発見 物証確認は初(伊豆新聞より)

「天城の寒天」製造の大釜発見 物証確認は初

 河津町梨本の旧下田街道に歌手・石川さゆりさんの「天城越え」に登場する寒天橋がある。天城山中腹の同橋近くで今から140年ほど前の明治時代初めに寒天製造が行われ、その名残として「寒天」の名が地名などと共に残るが、同所の寒天製造工場で材料のテングサを煮るために使ったとされる大釜が麓の同町大鍋の旧家で見つかった。天城の寒天製造に関し、物証確認は初めてで、新たな事実、歴史背景も解明された。

 天城山での寒天製造に関し、小田原短期大・食物栄養学科長の中村弘行教授(64)は現地調査はじめ、国立国会図書館や静岡県立中央図書館など1年ほどにわたる調査・研究の中で各種事実を確認した。大釜は今月、同町梨本の地元史に詳しい稲葉修三郎さん(91)に中村教授が取材した際、稲葉さんが昔の記憶をたどって再確認し、現存することが分かった。

 稲葉修三郎さんは「伝承」と前置きした上で「明治時代後半と昭和初めに上河津村長を2期務めた地元名士の稲葉伊右衛門さん宅は、高台に家があって水利が悪く、寒天製造を終了して不用となった大釜を水がめ用として譲り受けた。明治7(1874)年生まれの私の祖母からも聞いており、寒天の製造工場があった山中から4人が、てんびん棒で担ぎ運んだようだ」という。

 伊右衛門氏の孫・稲葉穎(ひで)子さん(72)は「10年前に亡くなった父・茂(88歳で没)から、寒天製造に使った釜との話は聞いていた。父は釜のさび止めで食用油を時々塗っていた」と話した。

 さきごろ中村教授、稲葉修三郎さんが確認したところ、現在も水がめとして使っていた。鉄製で直径約130センチ、深さ約100センチ。釜を火に掛ける際のつばに当たる部分は、腐食し損傷が激しく補修跡も見られる。全体にさびも目立つ。

 中村教授は「明治期に寒天製造が行われた兵庫県西宮市の山口町郷土資料館に残る大釜のホームページ掲載写真と河津町の大釜はほぼ同じような形をしている。六甲山麓では副業で寒天製造をし、寒天橋という橋も残る。夏休みに現地を訪ね、大釜と共に調べてきたい」という。

■勧業博で2度褒状 中村教授、殖産興業で成果も短命

 中村教授によると、テングサの一大産地だった下田・白浜などの人々や、韮山に伊豆国生産会社を設立した函南町出身の仁田常種(1822~98年)は、県外にテングサを売るだけでなく、寒天を地元で作れないか思案し、寒暖差のある天城山での製造を思い立ったという。

 1874(明治7)年以降、官林の借用や寒天製造工場増築願いを県や国に提出した。大蔵省に工場整備費用などとして1万円の借り入れ願いもし、79(明治12)年まで官林を借り受ける許可を得た。中村教授は都立中央図書館で「明治前期産業発達史資料」を調べる中で、第1回と2回の内国勧業博覧会に天城の寒天が出品され、褒状を受けた事実をつかんだ。

 寒天は京都伏見が発祥で、江戸後期に摂津、丹波、信州・諏訪に広まった。その背景には国を挙げて寒天を対清貿易の重要な輸出品にしようとする動きがあった。明治初めには明治政府の殖産興業の影響もあって全国に広まった。天城の製造もその一つだが、工場は開始からわずか5、6年で廃止になったという。

 中村教授は「大久保利通による殖産興業(民間産業重視)で大きな成果を挙げたものの、利通暗殺後、軍事工業重視への転換などにより短期に終わったのではないか」と分析する。

 1941(昭和16)年に帝室林野局河津出張所に就職し、寒天製造工場跡に設けられた寒天伐木事務所に勤務した稲葉修三郎さんの証言も得て、往時の寒天製造工場跡の様子なども確認した。

 ■「天城の寒天」31日から連載

 天城山での寒天製造の歴史を中村弘行教授が調査、執筆した「天城の寒天」は、31日から毎週日曜日、本紙文化面に連載する。

 【写説】明治初期に寒天製造に使われたとみられる大釜を調べる中村教授(奥)と稲葉さん。さびで劣化、金具による補修跡もみられる=河津町大鍋